allthecrafts:

How to Tie a Celtic Heart KnotLearn to tie this awesome knot, and many other ornamental knots, from Fusion Knots.

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How to Tie a Celtic Heart Knot

Learn to tie this awesome knot, and many other ornamental knots, from Fusion Knots.

混乱しているのは頭だけ。疲弊しているのは身体だけ。不足しているのは資金だけ。枯渇しているのは才能だけ。大丈夫や。俺は絶対に大丈夫や。

— Official MachidaKou Website (10/4) - 町田 康 (via atm09td)

(Source: daydripper)

駅構内のB倍ポスターに、こんなキャッチコピーがあった。
「インターネットを通じて、世界をより良くする」
GREEの企業広告だ。時期的にいって、リクルーティングを意識しているのだろう。ちなみにこのコピーは、いわゆる「コーポレートメッセージ」のようだ。隣には英語のポスターもある。
ただ、読んでみても「どうやって世界を良くするの?」ということはわからない。あまりにも抽象的だ。他のネット関連企業のステートメントだとしてもおかしくはない。
そんなことを思いながら、ホームに上がり電車に乗った。
額面広告はすべて「ドリランド」だった。GREEの提供するサービスだ。右も左も「ドッドッドリランド」。まあ、そのセンスとかは特にコメントしない。
ただ、ドリランドは紛れもなくGREEのインターネットサービスなので、先のメッセージに「ドリランド」を代入してみてもいいんだろう。すると、こうなる。
「ドッドッドリランドを通じて、世界をより良くする」
それで、世界が良くなるんだろう、きっと。
理念は素晴らしい。でも上半身と下半身の人格がネジレを起こしているような感じだ。
「ドリランドで、世界はこんなによくなった」
いつかの将来、そんな報告がされることを、僕たちは期待していていいのだろうか。

— GREEは何がしたいんだろうか。 - from_NY (via ponko)

いやぁ、

(via appbank)

(Source: horny-)

その瞬間、瞬間の余韻を切り取った俳句の世界観みたいなの

— Twitter / @honishi (via ak47)

あたしが小学5~6年生だったときの担任・マツダ先生(仮名)は、クラスで話し合うとき生徒にたったひとつのルールを課しました。そのルールとは、「意見を言うときは、必ず理由を言わなければならない」というもの。これは鉄の掟で、例外は許されませんでした。今にして思うとこれはすばらしい教育で、あたしはマツダ先生にものすごく感謝しています。

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こうやって丁々発止で説得し合ううちに、けっこうみんな、最初とは意見が変わっていくんですよ。「自分はドッジボールが好きだけど、当てられて嫌がる人がこんなにいるなら、バスケの方がいいかな」とか。「ソフトボールがやりたかったけど、言われてみれば学校のグローブはボロいし数も少ないし、別の種目の方がいいかな」とか。いろんな角度から意見とその理由を発表し合って、考えに考えて、意見が出尽くしたところで「では採決を」と持って行くのが、マツダ先生のやり方でした。

これが当たり前だと思ってたんだよね、小学生時代のあたしは。ところがいざ中学校に入ってみると、そこでの「話し合い」はこんなていたらくだったんです。

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なんちゅう幼稚な意思決定方法だ、と12歳のあたしは思ったね。こいつら小学生以下かと。これじゃ各自がなにも考えずに「ぼくのわたしの好きなもの」を選んでるだけで、意見を交わしたり考えたりっていうプロセスがゼロじゃん。自分と違う視点に気づくチャンスすらなく、それぞれセルフィッシュに「(自分が好きだから)これがいいでーす」と手を挙げるだけで、こんなの何の意味があるんだよと。

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そんでもって、意見交換で相手を説得するには根拠が必要なんです。上の方にも書いたけど、根拠を挙げようと思ったら、「ぼくは/わたしはこれが好きだから、みんなこれに賛成するべき」なんて小学生ですら恥ずかしくて言えなくなります。たとえタテマエでもいいから、「なぜこれが集団の構成員全体にとって有益なのか」を示さなければならなくなるわけで、全員が頭をひねってその「なぜ」を考えるうちに議論が深まり、より考え抜かれた意見が形成されていきます。そこまでやってから決を採ってこその多数決でしょ。

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結局はマツダ先生が偉かったってことになるんでしょうけど、ああいう議論のしかたの教育を日本じゅうの小学生が受けられるようにしなくちゃいけないと思いますね。ゆとり教育の見直しで算数だの英語だのの時間を増やすのもいいけど、こういうところにももっと力を入れていく必要があるとあたしは思ってます。

— 

マツダ先生(仮名)の思い出、あるいは議論の仕方を習ったことのない人はやっかいだということ - みやきち日記

これ、一度そういう経験をしないとわからないと思う。

(via dorelax)

いま、欧米では「7インチレコード」がインディロック界隈で密かに流行っています。ユニークなアイディアとして「MP3ダウンロード・コード」が特典となったことから、アナログプレイヤーがなくても音楽をiPhoneなどスマホやPCでMP3として楽しむことも可能となりました。いわゆる、「7インチレコード」が、大きなジャケットをアート感覚で楽しむ、所有欲を刺激してくれるアイテムとなったのです。

— 第5回:なぜ「CD」は売れなくなったのか? | DrillSpin (ドリルスピン) (via terrible-tokyo)

科学や技術の発展に伴うファトワー [編集]

  • 2007年マレーシア人の宇宙飛行士、シェイク・ムザファ・シュコアの任務に際し、マレーシアのファトワー評議会は、ムスリムの宇宙滞在中の過ごし方について18ページに及ぶファトワーを発令した。宇宙空間ではキブラ(礼拝の方角)やラマダーンに伴う断食時間の決定が困難であることなどによる。
  • オーストラリアのムフティー、シェイク・タージ・アルディン・アル・ヒアリは、頭髪および体の線が出ないように設計されたイスラム女性用水着「ブルキニ」が合法(ハラール)であるとのファトワーを発した。

— ファトワー - Wikipedia (via seiichirou)

 ところが、その後、オタク文化はより巨大になり、より洗練された。そして、オタク文化がより一般的になり、オタクを名乗ることに対する抵抗感が薄れた結果、オタクを名乗りながらも実態としては「みんなと同じ」ではないと気が済まない人間が増えてきたのだろうと推測する。

 「みんなと同じ」であることが「勝ち」であり、「だれも見ていないアニメをひとりで見ている」ことが「負け」であると考えるような価値観、それはまさに一昔前の「普通の人」そのものだ。

 オタクはいま、「普通の人」に侵食されつつある。しかし、皮肉なことに、より広い視点で見れば、その「普通の人」は過去の概念になりつつある。もはや「みんなが見ているテレビ番組」だの、「みんなが聴いているポップミュージック」だのは存在しない。「普通の人」はもはや必ずしも「普通」ではないのである。

— Something Orange (via junkplus)